「そなたは、また来たのか」
戸に手を当てた瞬間の、絶好のタイミングで問いかけられる。
どなり声よりも大人しい、呆れたと言わんばかりの声だった。けれど、普段から表情を変えない彼の顔を想像すれば、その声だけで尻ごみするには十分だ。
まだ姿は声の主から見えていないはずの位置だっただけに驚きは倍増した。
しかし何が起こるか分からないのがこの天界なのだ。と、理由にすらならない回答であかねは自分の中にけりをつける。
そう。神様の考えることなど人間であるあかねには、想像もつかないことであっても全くおかしくはない。
もしかしたら入ってきたことも察する何かがあるのかもしれないし、戸自体を透視できるのかもしれない。
とりあえず、数センチだけ、ゆっくりゆっくり、音を立てないように細心の注意を払って、戸を開ける。
片目だけで室内を覗いたあかねは、ぎょっと目を見開いた。
この一瞬だけで悟る。先程の一声は、自分に向けられたのでは、ないということを。
仁王立ちのままの北斗星君が完全に見下ろしたその先には、真っ白くふわふわしたものがひとつ。
(ええと、猫?)
あかねの心当たりと言えば、南斗星君のところで見かけたかもしれない、ということくらいものだ。まさかその猫がここに居ること自体が予想していない。
「…………ここには、何もない。早く立ち去るが良い」
「にゃぁ」
呟きが大層優しくあったことにあかねは唖然とした。猫と言えば、それが嬉しかったのか。北斗星君の足元にすり寄る。
北斗星君の、溜息が響き、目線が、移った。
「そなたは、いつまでそこに居るつもりだ」
隙間から見える目をまっすぐに捉えられ、あかねの心臓はどきりと跳ねる。その言動は、あまりに猫に対するものとはかけ離れていた。ようにあかねには思えた。
「すみません…………」
あかね観念したように戸を開けて、部屋の中へと入り北斗星君の隣まで歩み寄る。猫はあかねに気がついていないようだった。
「何用か」
「いえ、と、特に何も」
「ならば、そなたには、それを連れ出してほしい」
「しばらくこのままでも…………。北斗様にすごく懐いてるし」
やはりごろごろと、北斗星君の足、もとい着物に体を摺り寄せているそれはとても微笑ましく、ここで引き離してしまうのは、少々気が引けた。
「……忙しいんですか?」
「言うほどではない」
「迷惑ですか?」
「連れ出せ」
北斗星君の声が、冷たく変化する。それでも、下で幸せそうなそれと、北斗を交互に数回見比べて、問う。
「なぜ?」
「…………何故でも良かろう」
「理由がないなら、お断り、です」
それは、ただ単純な好奇心からの言動でもあった。
北斗星君の性格からすれば、話しかけるところからかなりの違和感はあれど、無視して作業するなどわけなく出来るはずなのだ。少なくとも、あかねのなかではそう思ってた。
かといって、生き物を邪険にするほど慈悲のない人ではないと、まだそこまで付き合いは長くないが、わかる。
北斗星君は、幾許か、黙る。
眉間の皺は深く、溜息も数回あった。
「…………私は、陰と死を司るもの」
「そうですね」
「それは私の元へ来てしまった。ならば、在るべき場所へ戻すのが筋」
ぽつりぽつり言う北斗星君に、ただあかねは相づちだけで次を待つ。
また、間が空いて、今度は深く息を吐いた。
今は、言う気がない、という印象をあかねは受けなかったのだ。なるべくなら言いたいく無い、言葉を選んでいる、どちらかだ、と。
あかねは、忍耐強く待つ。目は、逸らさない。逸らしては行けないと踏んだ。
しばらくの攻防。結局は、北斗星君の言葉で、終わりを告げる。
「猫と言う生き物は、死期を悟るものなのであろう?」
北斗星君は、下を向いて、それを捉える。
先程まで足にすり寄っていたそれは、今は北斗星君とあかねの周りをぐるぐると回っていた。
「何もそれが入りこんだのは今回が初めてではない。このような地に足を踏み入れるなど、他に何の用あるというのだ」
見ながらの北斗星君の苦笑は温かく、とてもとても拒んでいるようには、あかねには見えなかった。
「北斗様は、実は優しいんですよね」
妙に、こみあげてきたのは、嬉しさ。
ふふっと、あかねは笑う。もちろんであるが、馬鹿にしているというわけでは、決してなかった。
北斗星君としては笑われたこと本意ではない。
見るからに怪訝な顔をしていて、それがまた、あかねにとってはとても微笑ましかった。
「悟った時には「人を避ける」って私達の世界では言われてますけど。そもそも北斗様は人間じゃないし」
「……………………」
「いくらなんでも死の神様に会いに来るって言うのは聞いたことないから、この子はただ北斗様に会いに来ただけだと思うんだけどな」
確かに、以前そのような話をしたことがあったかもしれない。いや、あったのだろう。
あかねにとってはただの雑談であったからざっくりとした話だっただろうし、全くと言って覚えていない。それでもこれは人間界のお話なのだ。あかね以外が発信出来る情報とも思えない。
ただ、その雑談ひとつで、ここまで崩れた北斗星君を見ることになろうとは、あかね以外であっても誰も想像はできないだろう。
「この子の為を思うのなら、もう少しだけそのままで居させてあげてください」
あかねは、笑った。北斗星君に向けて。
「北斗様が、大好きなんだから」
一瞬、あかねを見ていた、北斗星君の顔が、歪む。
「にゃー!」
鳴き声に気づいて下を向けば、いつの間にやら二人の間に猫は座っていた。
「ほら返事した! やっぱり!」
「…………仕事の手が止まる」
「言うほど忙しくないってさっき言ったばっかりじゃない」
北斗星君は、盛大に溜息をつきながら職務へと戻ろうと足を運ぶ。その後ろを猫が行き、さらに後ろをあかねが行く。
さながら、親子のような。家族のような。
少なくとも、見るからに微笑ましい図であったことには、間違いないのだろう。